「種痘痕」から思うこと
主よ。私は御名を心から高らか高らかに賛美致します。
確かに敵の嫌がらせを受けています。けれども、私はあなたの御名を心から心から讃えます。船橋にてこの唇の誓いを果たします。
全焼のいえにえを、感謝の献げものをささげます。本日のデヴォーションのひと時を感謝申し上げます。
敵が、幼稚な嫌がらせをし、たった今消された詩篇をもう一度御前に、また多くの人々の前に明らかにします。
どうぞ、主よ、船橋での”働き”のためにも、このブログを祝してお用い下さい。
御名によって、お祈り」いたします。 アーメン
「神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精錬するように、私たちを練られました。
あなたは私たちを網に引き入れ、私たちの腰に重荷を着けられました。
あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。
私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。
私は全焼のいけにえを携えて、あなたの家に行き、私の誓いを果たします。
それは、私の苦しみのときに、私のくちびるが言ったもの、私の口が申し上げた誓いです。
私はあなたに肥えた獣の全焼のいけにえを、雄羊のいけにえの煙とともにささげます。雄牛を雄やぎといっしょにささげます。セラ
さあ、神を恐れる者はみな聞け。神が私のたましいになさったことを語ろう。
私はこの口で神に呼ばわり、この舌であがめた。
もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。
しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声に心を留められた。
ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵み(みめぐみ)を私から取り去られなかった。
(旧約聖書 詩篇66:10-20)
今朝は、四時半に早々と目を覚ました。誰もまだ起きていない(?)、静けさに包まれたカフェ。
暫く時を置いて、(前日のブログを再度チェックして、小修正を加えて、)五時半、
そろそろメシを頼んでも良かろうかと思ったので、当カフェの新メニューとして登場のチャンポンうどんとカレーうどん(朝は、むしろたくさん食べても健康にはOK)を注文した。
熱いうどんを食べ、汁を飲む間に、自前の代謝亢進(代謝熱量は、筋肉量に拠る)で、熱くなり、長袖のシャツを脱いで、トイレに用足しに行った。
鏡に映る姿に、思い出したように気が付いた。
「「種痘痕」」
その昔に、全世界を凌駕した病原体は「撲滅宣言」を出され、今では、ある研究所、たった一箇所に研究用にと、そのウィルス株を残している。
自らの体から自らの歴史を思い起こす。
早い話が移民(もっとも、生まれ育ちは日本)。けれども、父方の祖母が長野の諏訪の出身で、ある意味、(たとえばブラジルの)日系移民の再移民にも似る(?)ところもあるのかも知れない。
けれども、そういった訳で、”「外の文化」の影響をかなり受けている”言い換えれば「「国際人」」である。
文化の摩擦は、子供のころからあったが、けれども、この国の場合は・・・・
思い出したのは、すなわち、種痘痕からのタイムカプセルは、果たして、”小学校の4年~5年の一学期”に連れて行った。
当時の住まいは、茨城県稲敷郡阿見町。
思い出した事柄は、ケンカというよりは、受けた集団暴力。
かなりの大人数相手にケンカの日々。というよりはケンカをしかけられた日々。
けれども、わたくし自身は、その当時のことは、実際にはそれほどトラウマにはなっていないと感じている。
風向明媚な「千波湖」「偕楽園」、今、茨城が「やすらぎ」。
気付いて見れば、時折自分のアクセントが、”いばらぎなまり”になっていることも・・・
”水戸のなまり”は、かつて勤めた「鹿島なまり」にほぼ近似する。同じ北関東でも、栃木のなまりとは、明らかに違う。
もちろん、千葉の「だっぺ」ともである。
さて、そんな”阿見町時代”、当のケンカ友達もまた、そんなに大したことだとは思っていな(つまり、憎しみはないという「意」)かったようだ。
小学校のお別れ会、非常に強烈に印象に残っている。
それまで、転校して行く子のお別れ会には、複数回出席したが、恒例のプレゼント、
オレほどたくさんもらったヤツは、少なくとも、自分の記憶にはない、
その中で、ある男子クラスメイトからの手紙。
(確かに彼とはよくケンカをしたけれども)書いていた。
「リュウ君とは、よくケンカをしましたね。」
まあ、とにもかくにも、風光明媚な「千波湖」「偕楽園」、今、”いばらぎ”が心地良い。
書いているうちに、ふと、思い出した「茨城県民の歌」の最終章。
新しいものに代わっていなければの話であるが、(確か)「いばらぎ、いばらぎ、われらのいばらぎ」であった。
種痘痕より自らの”歴史”を振り返りながら、”「神」の導きのフシギ”をまた、覚える今日の始まり。
今日は、主日。「神」が、人が”安息を得るように”と祝福して与えられた”日”である。
本日の、日本の津津浦々の「神」にある教会で持たれる”礼拝”が、豊かに祝されるようにと願いつつ、筆を下ろさせて頂きます。


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