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2008年11月22日 (土)

「家なき子」とリバイバル

「友よ読みしや 主がわれらのため

十字架の上にて 苦しみしを

御手(みて)と御足(みあし)のみか 心も裂けて

君は死に給(たま)えり われらのため」

         (聖歌 「友よ読しや」より)

 今、心のうちに強く思わされていること、それは、自らが立派な職業(精神科医)についていることである。

堂々としたもの、そしてまた、誰も決して奪い得ないものである。

「”飛び級的な”進級」かも知れない。けれども、毎日毎日確実に実力をつけて行く。毎日がとても新鮮だ。

かつて、医師一年生のころ、上司の内科部長に問われたことがある。

「全てが、目に新しく、興味津々でしょう?」

答えはしなかったものの、答えは残念ながら「否」であった。

それが、今、正に毎日が新鮮で興味深い。

今日は、どんな患者さんに出会えるのだろう。朝が全然違う。

前の日は、次の日に備えてできるだけ早く寝るようにする。

およそ、医療という仕事にあって、わたくし自身「”全く経験したことのない”経験」である。

 色々な患者さんが来られる。最近出くわすチャンスが多いのは、珍しいのかどうか、いわゆる若い人のリストカット等。精神医療の分類的にはいわゆる「解離」というものである。

「解離」の大きな原因は、一言で言ってしまえば、「ストレス解消不全」。

すなわち、人のストレス解消ということにおいての”病的な”解消方法である。

では、もっとも、”健全な”ストレス解消の仕方とは何か?

「自分の気持ちを言葉を用いて上手に表現すること」で、これを「「言語化」」と呼ぶ。

わたくしのブログ、中々読み応えのあるものと”自負している”が、すなわち、わたくしにとって、これが「「言語化」」、ヤクザや創価学会が嫌っているこのブログが、すなわち、わたくしにとっての「「言語化」」である。

奴らは言う。「余計な口を叩いて」と。けれども、わたくしにとっては、無くてはならない「「言語化」」の場なのだ。

 さて、本日のタイトルに行こう。「家なき子」とは、すなわち、例の有名な物語。けれども、読者の方々に特にイメージして頂きたいのは、かの安達由美さんの”名演技”である。

いじめられ続けて、(確かにある意味では)強くなった「家なき子」。

「いじめられるヤツが、弱いからいけねェーんだよ」、あの迫力の名セリフは、またこの国の「茶の間」を二分したかとも思う。つまり、中には、「不快だ」という意見もあったと記憶している。

ほんの数ヶ月前だろうか。蘇我駅から乗車した各駅停車千葉行きの車内で、わたくしは、老年の女性から、この言葉を耳にした。

けれども、最近は、こういった事に出くわしてもさほど驚かない。

それこそ、ヤツらの頭取が、「「耳しいのコブラ」」だと知っているからだ。

「「耳しいのコブラ」」とは、どのようなものか。

自らが悟らないだけでなく、人が”知る”ことを阻む”悪い教師”のことだ。

耳しいのコブラに”洗脳されている連中”は、彼のことを「センセイ」と呼ぶが、実は、宗教家の皮を被った”ケダモノ”である。

実にマインドコントロールとは、恐ろしいものであるが、かつて、この国に出現した”尊師”を髣髴とさせるものだ。

彼にマイイドコントロールされた”輩”は、”れっきとした「資格」を持つ医師”のことを、

「無資格医師」と呼ぶが、元はと言えば、このことは、”軽率な発言をした”言いだしっぺの責任によるところが大きい。それであるから、”言葉の「暴力」”を振るわれ続けられている方にしてみれば、正式なステートメントを出して”「謝罪」をして欲しい”、こんな風に思っても仕方のないことではないかと思うのである。

そして、”「「無資格」」の調停”にも謝罪して欲しい。

一体”彼ら”は、妻が「解離」をしたということを全く分からないで、”知識もなく”調停をしていたのだから。

 けれども、妻にはこう言いたい。

「あなたの身に起こったことが、一体何だったのか、今のボクには、”全く”分かっている。

けれども、戻って来てくれ。もちろん愛している。

けれども、それ以上に、オレたちは、イエスさまに仕える者だ。

そして、そのイエスさまは、かく言われる。「これら小さな者にしたことは、すなわち、わたしにしたのである。(聖書)」

互いにイエスさまに仕えること、そして”神の栄光”を現すこと。

これが、オレたちの”生きるべき「道」”ではないか。」

最後にこの聖句をもって、今日のブログを閉じさせて頂きたく思う。

「人よ。彼はさきに何が善であるかを示された。主があなたに求めるものは、ただ公義を行い、慈しみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。」

        (旧約聖書 ミカ書6:8)

これからも、「神と共に歩む生涯」を歩み続けたい。こんな風に思わされました。

 <<注釈>>

リバイバルの「リ」とは、すなわち、「「再び」」を意味する接頭語の「Re」。また、バイバルとは、すなわち、Holly Bibble(聖書)、すなわち、(リ)バイバルとは、「地」が元の(元々そうであった)ように”聖(きよ)められた状態”、すなわち、”「神」の御心(みこころ)に適う状態”になること、

一つの例を挙げるならば、”「結婚の「神聖」」が保たれている状態”になること。

リバイバルとは、すなわち(地が)そういった状態に再びなることである。

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